スポンサーサイト

-- -- --
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「遊びをせんとや生まれけん」という言葉をどう解釈するかということ

2008 09 19
080919_1.jpg
京都・三十三間堂、両翼に500体ずつ、1000体の千手観音を矜恃とした中尊、千手観音(湛慶作)
(081218追記:久しぶりに見直したら漢字が違う。「脇待」で「きょうじ」ですな)
撮影禁止のはずだけどなんでFlickrにあるんだろう。
thx to 二葉
Flickr search [kannon]

遊び、という言葉の意味をここ数日考えています。

「遊んで暮らしている」「仕事もせずに遊んでいる」
悪し様に言われることが多いこの「遊び」という言葉がちょっと違うようにに思えてきたわけです。


それはある仏教関係の本を読んで教わったことでした。

観音教の一節に、「遊於娑婆世界(ゆおしゃばせかい) 」という言葉があるそうです。
意味合いは「娑婆(この生老病死のある人間の世界)」の中で観音様は遊んでいらっしゃる。」

観音様はあらゆる面で、圧倒的な力で人間を救ってくれる存在です。それ以外のことはなさいません。
その観音様の活動「人間を助けること」が観音様にとっては「遊び」だというのです。


他を助け、他に喜ばれ、他のために尽力することが、本人にとっての遊び、喜びである。

これは社会の中で営利事業も含め、他に影響をおよぼすさまざなま活動を行うものとして、非常に基本的な心構えであるなぁ、と思いました。

僕たちが社会というステージの上で遊ぶことで、周囲に良い影響を与えるというのはソーシャルアントレプレナーの考え方を彷彿とさせます。


社会を変えるぞ、他を助けるぞ、と眉間に皺を寄せてつらい思いをして…というのは正常な社会変革ではないというのですね。ただの我慢大会だ、と。

我慢、という言葉も仏教から来ています。仏教では慢心を7つ挙げており、「七慢」と言うそうです。
「我慢」の意味も、現在の用法ではほとんど考えないような意味ですよ。

ちょっと引用させてもらいます。

七慢」とは、慢(まん)・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)

(中略)
「我慢」は、今では「耐え忍ぶ」というような意味で使われていますが、仏法本来の意味は、自我に執着し、我尊しと自惚れ、それを恃(たの)むことをいいます。
(後略)

http://homepage3.nifty.com/y-maki/yougo/486a.html
「七慢」で検索して、日蓮正宗 正見山 知道寺さんのHPから「七慢」「我慢」の部分のみ引用させていただきました。


要するに、自分がこんなに苦しい思いをしてでも、他のために、社会のためにと活動しているんだ、と考えた時点で、その活動者は「我慢」という慢心に陥っているのです。その時点で自惚れであり、自己満足であるのです。

他を救おう、社会を変革しよう、明るい豊かな社会を作っていこう、と考えるものは、そのこと自体を楽しむこと。なのです。


僕は宗教者ではないし、日頃から不信心なので神様や仏様が僕を助けてくれるかどうかは知りません。
そんなことはどうでもいいんです。神様や仏様たちはいろんなことを教えてくれます。

これからも、できるだけ、遊んで暮らそうと思います。




↓励みになります。是非クリックお願いします
両ボタンともに別画面リンクですのでお気軽にポチリとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 福岡情報へ

↓できればこちらも

スポンサーサイト
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。